千代田町
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郷土の偉人たち

亀田鵬齋(かめだぼうさい)儒学者




(1752~1826)宝暦(ほうれき)2年 上五箇に生まれ、本名長興(ながおき)堂号 善身堂(ぜんしんどう)

「この子に最高の学問を授けたい。」鵬齋の父萬右衛門(安長)(やすなが)は、我が子誕生に一大決心をし、離農をして一家で江戸へ出た。
 鼈甲商(べっこうしょう)に職を得たが妻に先立たれ、子育てと、教育費の蓄財に心血を注いだ。
 息子もこれによく応え、素読は飯塚肥山(いいづかひざん)、書は三井親和(みついしんな)、儒学は井上金峨(いのうえきんが)という一流の学者に学び、どこでも頭角を現わした。
 時満ちて「折衷学派」(せっちゅうがくは)の塾を開くと、旗本の子弟などで門人が千人余となり、名声を得た。しかし、「寛政異学の禁」により、異学の五鬼の筆頭とされ閉塾に追い込まれた。
 だが、日頃から豪放磊落、義気に富んだ彼は自己を貫き通した。天明の浅間焼け・大飢饉には、蔵書を売り払い救援に当てたり、自費で泉岳寺に赤穂義士の顕彰碑を建てたりした。
 越後方面へ下向の際には、地元の人達と交流し、特に良寛との友情は語り草になっている。 
 仕事面では三絶(書・画・詩文が共に秀逸)の書家として活躍し、生活面では酒をこよなく愛し、文人仲間【大田南畝(おおたなんぽ)・酒井抱一(さかいほういつ)・大窪詩仏(おおくぼしぶつ)・谷文晁(たにぶんちょう)など)】と、度々「八百善」へ操り出した。
 墨蹟には、屏風・掛物・扁額・幟・碑等があり、千代田町を始め、各地に散在している。
 また、その子孫は、綾瀬(りょうらい)・鶯谷(おうこく)・雲鵬(うんぽう)と四代までは学者・書家、五代黄雲は画家というのも希有なことである。
 七十五歳で永眠。墓地は東京浅草称福寺(とうきょうとあさくさしょうふくじ)。

佐貫太郎助高(さぬきのたろうすけたか)

(779~不詳)

宝亀年間、藤原北家(ふじわらほっけ)の祖房前(そふささき)の子鳥養(とりかい)の二男小黒磨(おぐろまろ)(参議兼陸奥按察使)(さんぎけんむつあんさつし)が陸奥巡検(むつじゅんけん)の途中、上野国佐貫荘(さぬきしょう)の中島三郎太郎家綱(いえつな)の館に滞在した。此処には藤原家始祖鎌足(房前の祖父)の「大化改新」時の功田があり、荘務指図のためである。その折、家綱の女富子と結ばれ資高が生まれた。(宝亀十年)
 資高は外祖父中島将監家綱の訓育と、都で最高位が大納言にまで昇った実父小黒磨の後援により、無双の壮者に成長して、佐貫太郎資高と名乗り佐貫氏の祖となった。
 資高の子資綱(すけつな)・孫嗣綱(つぐつな)も智勇にすぐれ、赤岩へ城を築いたり、近隣へも一族を配して勢力を拡大したりして佐貫荘の基礎を固めた。後に言う「小黒磨流」である。
 註(資高の名は村誌・応仁武鑑による。館林記は、資綱または、藤原資高。館林盛衰記は資綱になっている)

藤原長良(ふじわらのながら)

(802~856)

藤原北家房前の子真楯(またて)の孫冬嗣(ふゆつぐ)の嫡男長良について、千代田町にはこんな伝承がある。赤岩の東隣、瀬戸井北の大沼に大蛇が棲んでいて、利根川に水を呑みに現れたり、ときどき娘を攫ったりして村人を苦しめていた。「都から長良様という偉いお方が桐生にお出でになっていなさる。」と、人伝てに聞いた里人は、長良に大蛇退治を頼みこんだ。長良は、御殿女中で弓の名手のおさよ殿に大蛇の両目を射させ、なおも抵抗する大蛇を刀で十八切りにし、頭を瀬戸井に、その他を近郷に分け与えた。これに感激した里人は長良様を祀るようになった。「十八長良」の由来である。
 推察するに、長良は天性温雅にして至仁の人なので、鎌足以来の功田の民の訴えを聞き届け、善政を施していたということであろう。官位は権中納言、五十五歳で没。後、陽成天皇の外祖として贈左大臣。更に太政大臣を追贈された。

僧 良重(そうりょうじゅう)

生没不詳

良重は赤岩光恩寺の住僧で、高徳才覚をもって世に聞こえていた。
 館林城幼主赤井文六照景は、足利城主長尾顕長(ながおあきなが)の陰謀をのがれ、下野坊と称し良重の弟子となって危難を免れている。
 また、天正十二年(一五八四)、小田原の北条美濃守氏規(ほうじょうみののかみうじのり)は館林城を攻めたが、容易に攻め落とすことができなかった。そこで深谷左京助(ふかやさきょうのすけ)に諮り、光恩寺を訪れ、良重に和睦の義を懇請した。良重は委細を承知して、早速館林城に赴き、北条氏との和睦扱いの趣意を申し入れた。「国家安全、万民快楽に過ぎたるものはない」と弁舌を尽くして説いたので、諸将も了承して和睦となり、一同万歳を唱え平和を謳歌することができたという。

赤井照光(あかいてるみつ)

(生年不詳~1545)

中世に入ると武士の台頭が著しく、群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)して下克上の世となり戦いに明け暮れた。佐貫庄の末裔(まつえい)も敵味方入り乱れ、世の動きに翻弄されていった。
 永享の頃、佐貫一族である舞木持広の寄騎の侍として赤井若狭守(わかさのかみ)の名が見える。赤井氏は持広・若狭守没後に舞木佐貫一族を打倒し庄頭の地位を得る。更に館林方面へ進行する拠点として青柳城を築いた。
 下って十五世紀半ばになると、青柳城主赤井山城守照光が大袋城を経て、狐が恩返しに自分の尾で縄張りしたという名城尾曳城(館林城)を築き本拠とした。この頃には赤井氏が館林周辺の諸郷村の土豪を服属組織化して、軍事・政治・経済共その手中に握っていた。此に「佐貫庄」は支配者の本拠地名を冠し、「館林領」と呼ばれる様になった。照光は天文十四年(一五四五)館林城で没するが、「赤岩山は先祖の菩提寺なれば、我が骨は堂山に葬るべし」と遺命し、光恩寺(こうおんじ)堂山々上に葬られた。

加藤利三郎(かとうりさぶろう)

(1841~1900) 天保(てんぽう)12年 赤岩生まれ

幼少より才知に優れ、長じて世襲の名主役を努めた。維新後は赤岩村役場の職員となり、地租改正事務に力を尽くした。次に邑楽郡書記となり、兵事と勧業部門を担当した。明治18年には県会議員に選出され、県政に尽力した。
 その後上京して実業界でも成功し、郷里の学生等にも援助の手を差し伸べた。
 六十歳で永眠。墓地は赤岩光恩寺(あかいわこうおんじ)と東京都台東区入谷の正洞院(しょうとういん)。

金子得斎(かねことくさい)

(1808~1867)
文化五年 上五箇生まれ
本名 茂教(もきょう)
俳号 葆原堂塢麦(ほうげんどううばく)
    紫峰庵夫雪三世(しほうあんふせつさんせい)

少年期より秀才と言われ、亀田綾瀬(りょうらい)に漢学を学んだ。常陸(ひたち)や下野(しもつけ)に遊学の後、郷里で塾を開く。得斎は、恬淡寡欲(てんたんかよく)で師道に専念したので塾は大いに栄えたという。
 書道にも優れ清雅で気品のある筆跡である。又、俳道でも一門を成して地方文化の興隆に尽くし、息子健斎(けんさい)(夫雪四世)があとを継いだ。鶯谷撰文(おうこくせんぶん)併書の誌碑が上五箇の愛宕(あたご)神社にある。
 六十歳で永眠。墓地は上五箇長性寺(ちょうしょうじ)の北の堂。
 辞世の句「蕣(あさがお)や永いさかりをけふの花」

岡戸畊榮(おかどこうえい)

(1851~1921) 嘉永4年 下中森(しもなかもり)生まれ
本名 幸四郎(こうしろう) 堂号 墨雲堂(ぼくうんどう)

幼少より学を好み、江戸で旗本天野昌蕃(あまのしょうばん)の小姓をしながら漢学や国学を学んだ。
 帰郷後更に漢学を杉竹外(すぎちくがい)に、書は山下雪窓(せっそう)・俳諧は荒井閑窓(かんそう)に師事し、何れもその奥を極めた。
 後に、閑窓の援助により館林で私塾を開いて、青少年の教育に励み多くの人材を世に出した。又、その温雅で清健な書風は、墨書や石碑として館林・邑楽郡内に数多く遺されている。
 71歳で永眠。墓地は下中森宝珠寺(しもなかもりほうしゅじ)。

進藤以成(しんどういせい)

(1842~1890) 天保(てんぽう)13年 山形県生まれ 本名 夂治(がいじ)

藩主秋元候(あきもとこう)の館林移封により父母に従って館林に移り住んだ。
 年少にて吉田陋軒(ろうけん)等について学び安政(あんせい)5年(1858)求道館(きょうどうかん)読書助手に命ぜられ、元治(げんじ)元年(1864)本町萱野で塾を開き、明治7年東寧学舎(とうねいがくしゃ)萱野分校で子弟を教え、同8年に住居を本町木崎へ移し惜陰学舎(せきいんがくしゃ)で漢学を教えた。明治18年には小学校の学務委員も務めた。
 四十九歳で永眠(えいみん)。墓地は、木崎東光寺(きざきとうこうじ)。

森田梅庵(もりたばいあん)

 

(1813~1872) 文化(ぶんか)10年 舞木生まれ 通称 篠助(じょうすけ)

幼少から学を好み、長じて江戸に出て市河米庵(いちかわべいあん)について学び、帰郷して塾を開いて郷里の子弟を教えた。遠近伝え聞き入門する者が多かったという。また名主の職にあること三十余年大いに治績をあげた。書を能くし、板倉の雷電神社碑(らいでんじんじゃひ)を揮毫(きごう)している。舞木長良神社(まいぎながらじんじゃ)の境内に、門人によって梅庵顕彰碑(ばいあんけんしょうひ)が建てられている。
 六十歳で永眠。墓地は、舞木円福寺(まいぎえんぷくじ)。

大塚半蔵(おおつかはんぞう)

(1828~1885) 文政(ぶんせい)11年 舞木生まれ

幼年期から儒者を自家に招き、漢学や和算を学んだ。三十一歳で家督を継(つ)いで名主となった。
 明治元年館林藩名主及び小泉組合二十四か村の大惣代となり、明治四年には岩鼻支配所郷中取締役兼堤防取締役として公益のため努力した。明治六年栃木県第十一大区九小区の戸長兼学区取締となり、各村の小学校設立や維持運営、また生徒試験掛として精励した。
 明治十一年新田郡書記に転職し学務課を担当し、教育行政のため尽力した。
 五十八歳で永眠。墓地は、舞木円福寺(まいぎえんぷくじ)。

藤原秀郷(ふじわらのひでさと)

生没年不詳

平安中期東国の豪族藤原秀郷(俵藤太)(たわらのとうた)は、藤原北家房前の子左大臣魚名(さだいじんおうな)(川辺大臣)より三代下った村雄(むらお)(下野権大掾河内守)(しもつけごんだいじょうかわちのかみ)の子で、出生は舞木・赤岩他多説がある。
 成人して弓の名人となりその豪勇伝説はあちこちに残っている。主なものは、「三上山の百足(むかで)退治」と、「平将門(たいらのまさかど)の乱」の平定(天慶三年)である。その功により下野国押領使から從四位下野守(じゅうしいしもつけのかみ)(武蔵守も兼務)に任官し、功田も賜った。又、築城にも才能を発揮し、下野国唐沢山城が有名である。
 当地の伝承は「赤城山の百足退治」と舞木城の築城である。舞木城址は永楽小学校の敷地として六十年間使用された後、現在は「俵団地」としてその名を留め、一角に顕彰碑が建っている。秀郷の子孫は各地に亘り分布しているが、当地でも「秀郷流」を名乗ってその拡大をはかり、先の「小黒磨流」と複雑に絡み合いながら佐貫荘を維持した。

増田市八(ますだいちはち)

(1844~1915) 弘化(こうか)元年 舞木生まれ

慶応(けいおう)二年二十三歳で九十五石の名主を努めた。明治二十二年永楽村誕生(えいらくむらたんじょう)と共に初代村長に推され十年余の長い間、村治に尽力した。
 明治二十九年邑楽郡会発足と同時に郡会議員に選ばれ郡会議長をつとめ郡治にも貢献した。明治四十三年の利根川大水害のあと、富永村外四か村耕地整理組合設立に奔走し組合議員として手腕を振った。
 七十二歳で永眠。墓地は、赤岩安楽寺(あかいわあんらくじ)。

郷土の偉人パンフレット

郷土の偉人(PDF/5,888KB)

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